書斎の本のかたづけ方(実践のまえに)
書斎の本のかたづけ方(実践のまえに)
今日、ふらりと時計屋さんに行った。グランドセイコーのスプリングドライブを見てきた。カッコイイというのはもちろんのこと、日本の技術力の高さに「安心」した。職人の端くれである自分にとって、芸術性の高い機能性追求の生き様がそこに凛とした姿で佇んでいたように感じた。
さて、今回は前回に引き続いて(実践編)として、文章を書こうと思ったが、そこに行き着く前に、本に対しての接し方や扱い方があってこその、「書斎の本の片付け方」があると考えた。
自社工場で20年の鉄工職人としての勤務実績(トヨタの見える化は興味深い)と、部屋に眠る3000冊の本との対話実績(小松易や池谷裕二、外山滋比古)が、本棚を作るというアーティストとして、一生懸命にやってきた自分にしか語ることのできない内容にも感じている。
今回は、「本」というものの捉え方にフォーカスして。
本棚のやってはいけないこと
今は、3000冊ぐらいの本が家にあり、かつて約500冊の本を手放してきた。そんな中、やらなかった方が良かったと思うことがある。
それが「本を売る」「本を捨てる」という行動だった。
もちろん、これは自分だけのことなのかもしれない。そして、いろんな「読み方」や「本との接し方」があると思う。ただ、自分は「本を手放す」という行為は、後悔と厚さ2センチ程度のスペースがちょこんと座った猫のように、ただそこにあるだけのように感じた。
手放さない理由は「本は読み返す」から。書いていた本の内容は、右ページか左ページか、後ろの方か、前の方か、握っていた本の厚みはどの程度か?そんな感じで覚えている。そんな人にとっては「手放した本」は読み返すという「知識定着」のチャンスを棒に振る行為だ。
本は道具で、使ってなんぼや
本は、道具だと考えている。効率よく「正確」な知恵や知識を手に入れるためのドラえもんの道具みたいなもの。なので、どんなに高い本を買っても、線を引っ張ったり、文字を書き込んだりする。破ったりはしないけれど、破れてしまっても「そんなもの」と開き直る。カバーは「長く読むときだけ」には、つけるけれど、本屋さんでは、絶対つけない。貸し借りはしないし、図書館も利用しない。
線を引っ張るという行為は、作者と自分とのコミュニケーション。相手の思想への返答であり、リアクションだと考えている。ウンウンとうなづく代わりに線を引っ張る。嘘だろって思ったら、「嘘だろ」と書くし、「またこの話」と同じ内容を繰り返す著者には「ストレスなくディスってやる」。
この読み方が、自分にとっては一番、身に付く読み方だったし、本との距離の保ち方だった。その匿名性からの脱却としての手段が「線を引くという」行動だった。
あえて破ったりはしないけど、こぼしてしまったコーヒーやチョコレートの汚れなんかが付いた日には「ラッキー」とも思う。破れてしまったら開き直ってのほほんとする。それが、本に対する接し方だと考えている。これは「荒俣宏」さんの影響が強い気する。
こぼしてしまったコーヒーや、食べカスなどの汚れが「読んだとき」の状況を伝えてくれる。感動した瞬間や目から鱗が落ちるような発見が「本の汚れを通して」自分の時間軸を捻じ曲げ、仮想空間のタイムマシーンに乗り込むきっかけを与えてくれる。
カバーは本屋さんではつけない。それは「どんな本を読んでいようが」そんなことを自分が他の人に対して、気にしていないように相手も気にしない。どんな本を読んでいようが、それは自分にとっての至福の時間であることに変わりはない。そして、読んだ本を「本棚」にしまう時(やっと本題!?笑)、カバーがついていると1冊や2冊ぐらいならなんとかなる。ただ、これが5冊、10冊と続いてしまうと、区別がつかなくなる。本は「知識を得るための道具」である。
そういう考え方に立ち返ると、区別がつかなくなる本棚には、また読み返すという反復学習のきっかけを投げ捨てる行為であり、エビングハウスの忘却実験の話を出すまでもなく、カバーをつけないという方法の方がいいと思う。
貸し借りはしない。貸した時に限って、「読みたい!」という衝動が沸き起こってしまう。そんな時に手元にないというのは、歯痒くて仕方ない。知識を自分のモノにするチャンスを自ら握りつぶしている。借りた本に「書き込んでもいいよ」という人がいるけれど、著者にディスっている自分なんか恥ずかしくてたまらないし、見られたくもない。むしろ、借りたという親切な行為に対して行う行動でもない。安くて500円、高くて2000円の投資を惜しむような薄っぺらな人間にはなりたくない。
本は道具であるが故に
本は道具である。道具は使うためにある。探す時間はもったいない。しまいやすいように保管する。取り出しやすいように収納する。これは、自分の工場で常に意識をして環境を変えていった年月が生きてくる。これは、片付け方の真髄であり、本質へとつながる行為。
本は道具である。そう考える人が試行錯誤して、編み出した「書斎の本のかたづけ方」(実践編)
乞うご期待。